高松高等裁判所 昭和33年(ネ)292号 判決 1959年10月30日
控訴人 北村憲一郎 外一名
被控訴人 高知市
主文
本件各控訴を棄却する。
控訴費用は控訴人等の負担とする。
事実
控訴人等代理人は、「原判決を取消す。被控訴人は控訴人両名に対し金百二十万円及びこれに対する本件訴状送達の翌日より完済に至る迄年五分の割合による金員を支払え。訴訟費用は第一、二審共被控訴人の負担とする。」との判決並に仮執行の宣言を求め、
被控訴代理人は、控訴棄却の判決を求めた。
当事者双方の事実上の主張は、
控訴人等代理人において、(一)印鑑届並に改印届に際し高知市吏員がなすいわゆる裏書証印は、被控訴人高知市の印鑑条例に規定されたものであつて、同市吏員全員につき印鑑事務に関与し得る権能を与えたものであるから、高知市吏員新井幸雄が訴外近藤浅喜名義の改印届につきなした本件裏書証印は職務行為に該当する。(二)仮に右新井のなした裏書証印が私的行為であるとすれば、改印届受理の衝に当る係員は、一般保証人の連署による場合と同様に慎重綿密に届出本人の確認をなすべき義務があるに拘らず、高知市吏員村上富弥が右義務を尽さないで右近藤浅喜名義の改印届を受理したのは、同吏員の過失である。(三)高知市戸籍課長金子九十九は、印鑑証明事務を担当する係員に対し市吏員の裏書証印のある場合には届出本人の確認につき緩かであつてよい旨指導していたのであるから、右は印鑑事務の重要性を認識しない無責任な事務指導乃至は完全な放任であり、印鑑事務を管掌する課長として重大な過失がある。(四)なお近藤浅喜と称する者が届出でた印鑑は一見して有合せ印と判る「寿」なる文字を表示したものであるから、右改印届を受理した前記村上富弥は、相当の注意をなせば当然奇異の念を懐く筈であつた。(五)また前記新井幸雄は、戸籍係主事の地位にあるところ、昭和三十一年八月二日頃訴外高橋正一より近藤浅喜の改印届の裏書証印を依頼され、翌三日右高橋正一が近藤浅喜と称する者を同伴して来たのであるから、戸籍簿につき調査すれば、右高橋正一が近藤浅喜を自己の養親であると称したことが虚偽であることが時間的にも事務的にも極めて容易に看破し得た筈であるに拘らず、これを怠つたのは過失である。と補陳し、
被控訴代理人において、控訴人等の右主張事実中印鑑届、印鑑証明等の事務を戸籍課長が管掌していることは、これを争わないがその余の事実を争う、と述べ
た外原判決事実摘示と同一であるから、ここにこれを引用する。立証として、控訴人等代理人は、甲第一号証の一乃至五、同第二乃至第四号証、同第五号証の一、二、同第六乃至第十号証を提出し、原審証人高橋正一、同北村滋長、原審並に当審証人新井幸雄、同村上富弥、同金子九十九の各証言並に原審における控訴人北村憲一郎本人尋問の結果を援用し、乙号各証の成立を認める、と述べ、被控訴代理人は、乙第一乃至第六号証を提出し、原審証人新井幸雄、同村上富弥、同北村滋長、同金子九十九の各証言を援用し、甲第十号証の成立につき不知を以て答えた外爾余の甲号各証の成立を認める、と述べた。
理由
被控訴人高知市が同市在住在籍者のために印鑑の登録並に印鑑証明事務を取扱つて居り、同市市長は戸籍課長金子九十九をして印鑑届改印届の受理及び印鑑証明事務を管掌させていたこと、昭和三十一年八月三日高知市長に対し訴外近藤浅喜名義の改印届及び訴外高橋福治名義の改印届が夫々提出され、高知市長は右各改印届を受理した上、同日右両名の印鑑証明書を発行したこと、右近藤浅喜名義の改印届については、被控訴人高知市の吏員新井幸雄がいわゆる裏書証印(後記認定参照)をしたことは、いずれも当事者間に争がない。
而して成立に争のない甲第一号証の一乃至五、同第二乃至第四号証及び乙第一号証並に原審証人高橋正一の証言を綜合すれば、訴外高橋正一は昭和三十一年七月頃訴外内村増郎と共謀の上、訴外近藤浅喜所有に係る原判決添付目録記載の宅地を訴外高橋福治(高橋正一の実兄)が右近藤浅喜より買受けてこれを所有しているもののように装い、右土地を担保に入れて他より借用金名下に金員を騙取しようと企てたこと、そこで右土地につき所有者たる近藤浅喜に無断で同人より高橋福治に対する所有権移転登記及び債権者に対する抵当権設定登記等をなす必要上、同年八月三日高知市役所に出頭し勝手に近藤浅喜名義の改印届並に高橋福治名義の改印届をなし、夫々印鑑証明書の発行を受けたものであり、右各改印届は右近藤浅喜及び高橋福治の全然不知の間になされたものであること明らかである。
控訴人等は、控訴人等は前記高橋正一等が昭和三十一年八月六日右各改印届に使用した印章と右各印鑑証明書とを使用してなした近藤浅喜より高橋福治に対する前記土地の所有権移転登記を信用し、右土地を担保として高橋正一等に対し金百二十万円を貸与したものであるところ、後日右は近藤浅喜及び高橋福治不知の間になされたものであつて、詐欺であることが判明し、右金額と同額の損害を蒙つたものであるが、前記各改印届の受理、印鑑証明書の発行等については、被控訴人高知市の戸籍課吏員である新井幸雄、村上富弥及び北村滋長に夫々職務上の過失があり、右はひいて戸籍課長たる金子九十九の過失に基くものというべきであるから、国家賠償法第一条により被控訴人高知市に対し右損害の賠償を求めるものである、と主張するにつき審按する。
先ず被控訴人高知市は、印鑑証明事務は個人のためにその請求に基いてなす一つのサービス事務であつて、国家賠償法にいわゆる公権力の行使としての事務に該当しないと主張するけれども、印鑑届、改印届の受理、印鑑証明に関する事務は、地方自治法第二条第三項第十六号の規定に該当する事務であり、いわゆる公証行為の一種に属し、その本質は地方公共団体の支配権に基く作用即ち権力作用と解するのが相当であるから(大審院昭和一三年一二月二三日判決参照)、国家賠償法にいわゆる「公権力の行使」としての事務に当るものというべきである。従つて被控訴人の右主張は理由がない。
そこで前記各改印届の受理及び印鑑証明書の発行につき、被控訴人高知市の吏員に過失があつたか否かにつき以下審究することとする。
(一) 近藤浅喜名義の改印届について。
成立に争のない乙第四号証に徴すれば、高知市印鑑条例第一条第一項は、「本市の在籍者並に居住者であつて印鑑届出をしようとする者は、本人が出頭し、既に本市に印鑑届をしている成年者一名の保証人連署をもつて届出なければならない。改印をしたときも同様である。但し本市吏員において届出本人であることを確認し保証する場合は、その吏員の証印をもつて保証人の連署に代えることができる。」と規定し(右市吏員の証印を以下便宜裏書証印と略称する)、高知市印鑑条例施行細則第二条第三項は、「条例第一条第一項但書の規定によつて、本市吏員が届出本人であることを確認したときは、前二項の様式によらないで第五項に定める印鑑紙の裏面に届出本人に相違ないこと並にその吏員の職氏名の記載捺印を受けなければならない。この場合は印鑑紙の提出をもつて印鑑届又は改印届とみなす。」と規定していること明らかである。
而して成立に争のない甲第一号証の一乃至四、同第二号証、同第八号証及び乙第六号証(近藤浅喜名義の印鑑紙)の記載に原審並に当審証人新井幸雄、同村上富弥、原審証人高橋正一の各証言を綜合すれば、前記高橋正一は昭和三十一年八月初頃高知市内の印判屋で「寿」という字(書体はてん書)を印刻した印章を注文作成させた上、同年八月二日右印章を勝手に前記近藤浅喜の印として改印の手続をするため、高知市役所に出頭したこと、その際たまたま右正一の幼な友達であつた訴外新井幸雄が同市役所戸籍課に主事として勤務していたところより(同訴外人は戸籍課員ではあつたが、印鑑事務の係ではなく、戸籍届書類の整理、犯罪人名簿の整理、統計その他庶務等を担当していた)、高橋正一は右新井幸雄に対し自分は近藤浅喜の養子となつているのだが、養父の改印届をしたいから、裏書証印をして貰いたい旨依頼したこと、右新井は高橋正一に対し近藤浅喜本人を同行してくれば、裏書証印をしてもよい旨答えたところ、高橋正一は翌八月三日遊園地に居た全然見ず知らずの、近藤浅喜とほゞ同年輩の男に近藤浅喜の替玉になることを依頼し、その男を高知市役所に同行し、新井に対し近藤浅喜本人を連れて来た旨偽り告げたこと、新井幸雄は近藤浅喜なる者と面識がないにも拘らず正一の言を信用して右の男を近藤浅喜本人と誤信し、近藤浅喜名義の印鑑紙(乙第六号証)の裏面に、「表記本人たることを証明する。戸籍課主事新井幸雄」と記載し、その名下に捺印した上、右の男を印鑑事務を取扱つている戸籍課吏員村上富弥の許へ連れて行き、同人に対し右の男を近藤浅喜本人であると指示した上、自分が裏書証印したから右近藤浅喜の改印手続を処理して貰いたい旨依頼したこと、右村上富弥は新井の連れて来た右の男が近藤浅喜の年齢(明治二十八年九月一日生)と年恰好も合い、且つ新井主事が本人に相違ない旨の裏書証印をしているところより、右の男を近藤浅喜本人であると確信して、その改印届(但し乙第六号証の印鑑紙、以下同じ)を受理し、印鑑証明書を発行したことを認めることができ、右認定を動かすに足る証拠はない。
(1) 新井幸雄の過失について、
先ず被控訴人高知市の吏員新井幸雄に過失があつたか否かにつき考察するに、新井幸雄は近藤浅喜なる人物を全然知らないにも拘らず、高橋正一の言により同人の同行して来た前記替玉の男を近藤浅喜本人と軽信し、その男が果して近藤浅喜本人であるかどうかを十分確認することなく、前掲乙第六号証(近藤浅喜名義の印鑑紙)の裏面にいわゆる裏書証印をしたこと前叙認定の通りであるから、右新井幸雄は前記裏書証印をなすに際し届出人が本人であるかどうかを十分確認しないでなした過失があつたことは否定できないけれども、同人の右過失が高知市吏員としての職務執行上の過失に当るか否かについては更に考察を要するところである。そこで前記の如く高知市印鑑条例が第一条第一項但書において「本市吏員において届出本人であることを確認し保証する場合は、その吏員の証印をもつて保証人の連署に代えることができる」旨規定している趣旨を考えて見るに、かかる届出本人確認の方法を認めたのは、印鑑届または改印届をしようとする者が高知市吏員の中に知人を有するような場合には、わざわざ同市に印鑑届をしている成年者の連署を取らなくても、右知合の市吏員の裏書証印を得れば直ちに印鑑届または改印の手続ができるよう、専ら届出人の便宜のために、市吏員の裏書証印をもつて印鑑届をしている成年者の連署に代えることができるものとしたものと解するのが相当であり、右裏書証印は市吏員たる資格においてなすものではあるが(但しその所属部課を問わない)、市吏員として一般に印鑑届出本人と面識がある場合に裏書証印をなす義務を課せられているものではなく市吏員が印鑑届出人のために裏書証印をなすか否かは全く自由であり、また市吏員の裏書証印があつても、保証人連署の場合と同様印鑑届を受理する係員としては届出人が本人であるかどうかを確認する義務があり、印鑑係員の右義務は市吏員の裏書証印が存することによつて免除或は軽減されるものではないと解すべきである。然らば印鑑届または改印届に際し高知市吏員のなすいわゆる裏書証印は、それ自体市吏員としての職務行為であるとはいえず、本件の場合高知市吏員新井幸雄が前記の如く裏書証印をなすに際し存した過失は、国家賠償法第一条第一項にいわゆる「公権力の行使に当る公務員がその職務を行うについて過失があつた場合」に該当しないものといわなければならない。なお右新井幸雄はたまたま戸籍課の課員(主事)であつたことさきに認定した通りであるけれども、そのことは右の判断に影響を及ぼすものではない。
(2) 村上富弥に過失があつたか否か。
次に近藤浅喜の改印届を受理した被控訴人高知市の吏員村上富弥に過失があつたか否かにつき検討するに、前記村上富弥は、戸籍課において印鑑に関する事務を担当していたものであるところ、新井幸雄主事が近藤浅喜本人であるとして連れて来た前記替玉の男が近藤浅喜の年齢と年恰好も合い、且つ新井主事の裏書証印が存するところより、その男を近藤浅喜本人であると確信して改印届を受理し、印鑑証明書を発行したものであること前叙認定の通りであるところ、その際村上係員は、右替玉の男に対し、前の印鑑はどのようなものであつたかを尋ねたのみで特に生年月日、本籍、住所等を質問しなかつたことは、真正に成立したものと認められる甲第十号証及び原審並に当審証人村上富弥の証言に徴しこれを窺うことができる。而して同証人の証言に原審並に当審証人金子九十九の証言を綜合すれば、高知市戸籍課においては、印鑑届、改印届の受理を担当する係員において、印鑑届出人として出頭した者が果して本人であるかどうかを確認する方法として、通常は係員が出頭者の顔を見ながら、氏名、生年月日、本籍、住所等(改印届の場合は右の外届出済の印鑑の形状等)を尋ね、その年恰好或は返答の内容、態度等に不審を感じたときは、更に住民票を調査し、これに基き家族構成等を質問して、本人であるかどうかを確めていたことを認めることができるところ、市吏員の裏書証印がある場合においても、印鑑係員としての届出本人確認義務は決して免除乃至軽減せられるものでないことさきに説示した通りである。しかし市吏員が裏書証印をなした上届出本人と称する者を印鑑係員の許に連れて来て、同係員に対しこの者が本人であると指示した場合、いやしくも市吏員が本人でない者を本人であるとして連れて来るようなことは通常あり得ないことであるから、印鑑係員としては、特に本人でないことを疑わせるような事情の存しない限り、当該市吏員を信頼して保証人連署の場合に比し本人確認の措置を幾分簡略にすることも、十分首肯できるところであり、本件の場合新井主事の連れて来た前記替玉の男の年恰好が近藤浅喜の年齢ともほゞ符合するところより、村上係員が新井主事を信頼して、その男に対し本人確認のために通常行う種々の発問を或程度省略して、その男を近藤浅喜本人と認め、前記改印届を受理し、印鑑証明書を発行したとしても、同吏員に必ずしも職務上必要な注意義務を怠つた過失があるとはいえない。なおその際届出た印鑑が近藤浅喜の氏名を表示したものでなく、「寿」なる字を表示したものであること前認定の通りであるけれども(甲第八号証参照)、高知市役所に届出済の印鑑の中約三分の一位は届出人の氏名を表示顕出していないものであること原審証人金子九十九の証言に徴し明らかであるから、村上係員が右の点につき疑念を懐かなかつたことを敢て非難することはできず、また前顕甲第十号証の記載内容を検討しても、村上係員が本人かどうかにつき疑をさしはさまなかつたことを必ずしも責めることはできない。その他近藤浅喜名義の改印届提出につき届出本人でないことを疑わせるような特段の事情があつたことを肯定するに足る資料がなく、被控訴人高知市吏員村上富弥に職務上の過失があつたとは認められない。
(3) 金子九十九に過失があつたか否か。
訴外金子九十九は被控訴人高知市の戸籍課長として、印鑑届、改印届の受理及び印鑑証明事務を管掌していたこと前記の通りであるところ、たまたま戸籍課の課員であつた前記新井幸雄に前記のような裏書証印をなすについての過失があつたことさきに認定した通りであるけれども、同人の過失は市吏員としての職務執行上の過失に該当しないこと前説示の通りであり、同人に前記のような過失があつたからといつて、金子九十九に戸籍課長としての過失があつたということはできない。
また控訴人等は、金子戸籍課長は印鑑事務担当の係員に対し市吏員の裏書証印のある場合には届出本人の確認につき緩かであつてよい旨無責任な指導していたのであつて、右は課長として重大な過失であると主張する。しかし原審並に当審証人金子九十九の証言に当審証人村上富弥の証言を綜合すれば、金子戸籍課長は印鑑事務を取扱う係員に対し、市吏員の裏書証印のある場合においても、本人であるかどうかにつき疑問のあるときはよく確めて過誤なきを期するよう指導していたものであり、たゞ市吏員の裏書証印があつて、その吏員と届出人とが共に窓口に来て、年齢性別等により届出本人であることの確信が得られた場合は、本人確認のためにする発問を或程度省略してもよいとの趣旨の指示を与えていたに過ぎないことを認めることができ、同課長が市吏員の裏書証印のある場合には届出本人の確認につき緩かであつてよい旨指導していたものとは認められない。従つて戸籍課長金子九十九に印鑑事務を取扱う係員に対する事務指導につき控訴人等主張の如く過失があつたものとは認められない。
(二) 高橋福治の改印届について。
成立に争のない甲第一号証の一、同第九号証及び乙第五号証、原審証人北村滋長、同金子九十九の各証言並に原審証人高橋正一の証言の一部を綜合すれば、前記高橋正一は昭和三十一年八月三日高知市役所において前記の如く近藤浅喜の改印の手続をしてその印鑑証明書の発行を受けた後、近藤浅喜所有の前記土地の所有名義を同人より高橋福治(正一の実兄)に移し、更に債権者のため抵当権設定登記をなすため、右高橋福治の改印の手続をなすこととし「高橋」なる印章を使用して勝手に高橋福治の改印鑑届(乙第五号証)を作成し、これに保証人として高知市に印鑑届をしている訴外中越常子の署名捺印を得て、同日午後再び高知市役所に出頭し、戸籍課において印鑑事務を取扱う係員北村滋長に対し、届出人たる高橋福治本人のように装うて右改印届を提出したこと、右北村係員は右出頭した高橋正一に対し、生年月日、本籍、住所並に従前の印鑑の形状等を尋ねたところ、すらすら返答があり、その年恰好も高橋福治の年齢と似通つていて(高橋福治は大正十三年五月三十一日生、高橋正一は昭和四年一月一日生)、格別疑わしい点はなかつたため、右高橋正一を届出人高橋福治本人であると誤信して、右改印届を受理し、印鑑証明書を発行したことを肯認することができ、高橋正一は高橋福治の実弟であるから係員の前記発問に対しすらすら答えたことも十分首肯できるところであり、原審証人高橋正一の証言及び前顕甲第十号証の記載中に一部右認定に牴触する部分が存するけれども、該部分は信用できず、他に右認定を動かすに足る証拠はない。
そこで被控訴人高知市の吏員北村滋長に職務上の過失があつたか否かにつき考察するに、右認定のような状況の下においては、北村係員が前記認定の程度の本人確認方法により高橋正一を届出本人高橋福治と信じて改印届を受理したことを以て、同係員に職務執行上の過失があつたということはできない。また右高橋福治の改印届受理に関し同係員の上司たる金子戸籍課長に過失があつたということもできない。
(三) 各印鑑証明書発行について。
控訴人等は、戸籍課長金子九十九は昭和三十一年八月三日及び同月六日高橋正一より近藤浅喜及び高橋福治の各印鑑証明書の発行を求められた際、右請求者が本人であることを確める義務があるに拘らずこれを怠り、慢然と右両名の各印鑑証明書を発行したことにも重大な過失があると主張するけれども、印鑑証明は申請にかかる印鑑が既に適法に届出られた印鑑と相違ない旨を証明するに過ぎず、印鑑証明書の発行を求めるためには必ずしも印鑑届出本人が出頭することを要するものと解すべき理由はないから、戸籍課長または印鑑証明係員に印鑑証明請求者が印鑑届出本人であるかどうかを確める義務があるものということはできず、この点にも市吏員としての過失は認め難い。従つて控訴人等の右主張は理由がない。
然らば印鑑の重要性に鑑み、市町村において印鑑に関する事務を担当する係員は慎重に事務を処理して過誤なきを期すべきであること多言を要しないところであるが、叙上説示に照し、被控訴人高知市の吏員たる金子九十九、新井幸雄、村上富弥、北村滋長に職務執行上の過失があつたことを原因として、国家賠償法に基き被控訴人高知市に対し損害の賠償を求める控訴人等の請求は理由がないといわなければならない。
次に控訴人等は、仮に国家賠償法に基く請求が理由がないとしても、被控訴人高知市は民法第七百十五条により被用者たる前記各吏員の行為につき損害賠償責任がある、と主張する。しかし被控訴人高知市の吏員金子九十九、村上富弥、北村滋長に過失の認められないこと前叙説示の通りであるのみならず、市が印鑑届を受理し、印鑑証明をなす事務はさきに説示した如く、公権力の行使に当る事務と解すべきであるから、被控訴人高知市の右事務に関する限り民法第七百十五条を適用する余地はなく、たゞ高知市吏員新井幸雄において裏書証印をなすにつき過失のあつたことが認められること前記認定の通りであるけれども、右はさきに説示した如く同吏員が職務を行うに際し犯した過失であるとは見られず被控訴人高知市のいわゆる事業の執行につき過失があつたものとはいえない。従つて民法第七百十五条に基く控訴人等の請求もその理由がない。
然らば控訴人等の請求は、爾余の点についての判断をなすまでもなく、これを認容することができず、本訴請求を排斥した原判決は相当であるから、民事訴訟法第三百八十四条により本件各控訴はこれを棄却することとし、控訴費用の負担につき同法第八十九条第九十三条第九十五条を適用して、主文の通り判決する。
(裁判官 谷弓雄 浮田茂男 橘盛行)